Vol.2 語り手 松下恒久氏

アルバローザを巡るさまざまなこと

戦後のファッションを見直す機運が盛り上がっている。そんな中以前からアルバローザを知る人々に「アルバローザの現象とはなんだったのか」「日本のファッション史の中のアルバローザとは」等をテーマに、それぞれの立場から見たアルバローザについてお話を伺うシリーズの第2回目。伊勢丹のバイヤーとしてアルバローザに関わった松下恒久さんをお迎えした。 

松下 恒久 氏

プロフィール
東京都出身。1973年立教中学校に入学し、学内で主流だったトラッドやアイビー系のスタイルに触れ、ファッションに目覚める。1976年創刊の「POPEYE」(マガジンハウス)で紹介されていたアメリカ西海岸のカルチャーやファッションにも強い影響を受ける。1983年立教大学を卒業後、株式会社伊勢丹に入社。89年に29歳で当時の伊勢丹の最年少バイヤーに就任し、「G―YOU」のコンセプト作りや商品選定を一手に引き受ける。「G―YOU」では、93年まで「1年中夏を愉しむ」をコンセプトに、百貨店では他に例を見ない売場を展開。年間5億円の売り上げを実現した松下さんが、その売場のメインブランドに選んだのがアルバローザだった 

第2回 ファッションの伊勢丹で、アルバローザはどんな存在感を示したか

伊勢丹といえば、ファッション性の高い衣料品が若い人から中高年の層まで支持を集めるデパートとして、長年に渡りさまざまな流行を牽引してきた。松下さんが伊勢丹新宿本店のヤング向け売場「G―YOU」を担当していた1990~93年頃。
日本のファッションの歴史の中で、伊勢丹におけるアルバローザとはどんな存在だったのだろうか。アルバローザの位置付け、リゾートウェアの日本での確立など、松下さんがファッションにひたむきに関わったバイヤー時代のお話を語っていただいた。

若干29歳、伊勢丹のバイヤーに
ライフスタイルにフォーカスしたショップを任された

 僕と伊勢丹との関わりは立教大学1年のアルバイト時代からですが、入社を決めた大きな理由は、当時伊勢丹の売上高は百貨店中7番目にもかかわらず営業利益率がトップだったからです。実家が小売の商売をしていたので、売上高より儲けを示す営業利益率の方が大事なのはわかっていましたから、その秘密を探ってみたかったのです。

 1983年に入社した当時、世間では「ファッション・ヤングの伊勢丹」と言われていたこともあって、婦人服に儲けの秘密があるとにらんで、入社後は婦人服一択で配属の希望を出しました。晴れて新宿店本館2階のヤング・カジュアル服の売場に配属され、そこで4年間、売場に立って徹底的に接客を学んだ後、アシスタントバイヤーになりました。

 1988年、僕がアシスタントバイヤー2年目の時に、新宿本店の2階の角地に20代前半から上のお客様を対象に、ライフスタイルにフォーカスした伊勢丹自主編集ショップの「G―YOU」ができました。売上目標は年間5億円でしたが、1年経っても半分しか達成できませんでした。

 そんななかで上司から、「松下の若さだからできる、伊勢丹にしかできない売場につくり直してくれ」と言われ、それまでのバイヤーを押しのけて新バイヤーに就任しました。

『JUNGLE & BEACH』カタログ表紙
1990年 Summer
『PARADISE !』A3判カタログ表紙
 1990年 Winter Resort Collection

●自主編集ショップ「G―YOU」をリニューアル
「1年中夏を愉しむ」のコンセプトを打ち出した 

 とはいえ、いきなりの大仕事。とんでもない坪単価を誇る最高の立地で100㎡もある売場です。しかも、準備期間は半年しかありません。さすがにどうしたものかと考えあぐねたのですが、そんなときこそ答えは売場で見つかるものです。

 あるとき接客していると、冬なのにショートパンツを買いに来る人がたくさんいることに気づきました。「どうしてですか?」とお客様に尋ねると、「年末年始にハワイに行くからそのお買物。まだ時間はあるけれど私の旅はもう始まっています」と楽しそうに話してくれました。

 また、ちょうどその頃ジュリアナ東京が誕生して、ディスコがブームになりかけていました。彼女たちは真冬でもディスコの中ではノースリーブのボディコンシャスドレスで踊っています。それで、この二つが結びつきました。これって、寒いところから暑いところへ行く、非日常空間を楽しむ感覚が一緒じゃないか? と。

「1年中夏を愉しむ」、新生「G―YOU」の売場コンセプトの方向が決まりました。

そこで、このコンセプトに合う、アルバローザというブランドを売場のトップブランドに据えることにしたのです。

『SOUTHERN OCEAN』
『JJ』1991年6月号掲載広告

●カジュアルではあり得ない本物感
アルバローザを売場のトップブランドに

 その頃、アルバローザはどういう位置にあったのかというと。

 前身である加藤商店の頃から、伊勢丹はアルバローザと付き合いがあって、僕自身も知っていました。アルバローザの商品は、南の島が大好きでハワイもバリも欧米のリゾートにも行ったことがあるスタッフ達が生み出しているから、他とは本物感が違うと思っていました。それに商品を見ればわかりますが、とにかく品質が高い。もの作りに手を抜いていないのです。手捺染という職人の手によるプリント法で何版も重ねて、それで滲みもほとんど出ないなんてカジュアルの世界ではあり得ないし、驚きました。

 このアルバローザの希有な商品力を引き立たせるために、新生「G―YOU」では周りを固めるブランドも充実させないといけない。そこで参考にしたのが、当時渋谷109の地下にあってアルバローザを中心に展開していたセレクトショップの「ミージェーン」と、アメカジを独自に解釈したレディスショップ「ロッキーアメリカンマーケット」でした。

 休日はこれらのお店に張り付いて、1日中109の地下にいたこともありましたね。お店に搬入される商品の段ボールを見て、メーカー名と電話番号を片っ端から控えて商談にも行きました。

スパンコール ビスチェ
『JJ』1991年1月号掲載商品

●「G―YOU」の売上高の1/3以上がアルバローザ
売れるのに品薄状態が続いたのが残念なこと

 さらに商品を揃えるため、日本の百貨店のバイヤーが行かないようなアメリカ西海岸のトレードショーに参加して、中・大手以外の現地ブランドの商品を探したり、現地在住の日系二世のエージェントと契約して、サンディエゴからロサンゼルスまでの海沿いの道を走って、ビーチごとにカジュアルショップを回ったりもしました。

 サンディエゴでは景勝地で有名なラホーヤの、一泊200ドルもするリゾートホテルに泊まりました。朝食を食べながら海を見ていると、目の前でボディーボードをやっている人がいる。そんなリゾートライフを目の当たりにするのもいい経験になりました。

 また、当時流行したバナナリパブリックのアニマルプリントのTシャツも「G―YOU」に置きました。あのときはまだバナナリパブリックが日本に上陸しておらず、Tシャツだけを卸してもらうことはできない。でもどうしてもあのTシャツがほしかったので、ロサンゼルス郊外にあった工場と直接交渉してOKをもらいました。治安が悪いロサンゼルスの公園で、10パターンのTシャツのプリントを渡されたりしたのはすごい経験ですね。

 こんな感じで「G―YOU」の商品展開をしていましたが、目標の5億円に到達するまでに2年半かかりました。そのうちアルバローザの売上げは1億5000万円弱でしたから、いかに稼ぎ頭だったかがわかります。

 本当はもっとアルバローザの商品を売りたかったのですよ。でも残念なことに商品在庫がなかった。あの当時、パレオを20枚オーダーしても入荷は2、3枚。苦労したのはセールの時で、アルバローザの本社まで行って倉庫にも入りましたが、商品が全然ないのです。それをお客様もわかっていたから、商品を棚に置いたらすぐに売れていきました。

プリント ワンピース
「牧瀬里穂さんがパラダイス娘に挑戦」掲載商品
『JJ』1992年4月号
プリント カルソン
「超人気服・アルバローザのすべて ―
なるほどパラダイス・ガール教本」掲載商品
『JJ』1992年7月号

●月刊誌「JJ」とのコラボ企画、ボア付きコートに予約殺到
アルバローザを表現する「ヘルシー・セクシー」

 アルバローザの商品をもっと回してもらいたくて、90年頃には冬物のコートの受注会を企画したこともありました。受注したら納品してもらえるだろうと思って、それに合わせて女子大生が読んでいた月刊誌「JJ」(光文社)の特別付録でアルバローザのコート特集をしてもらったのです。92年のことでした。その反響はものすごかった。それでもうちにはあまり納品してもらえない。困りました。それは、アルバローザの経営方針は「売れるから大量に作る」という商売をしていなかったからなのですよね。
 そのとき、「JJ」の編集長と意気投合したのは、「アルバローザにはセクシーさを感じるよね」という点。「肌の露出が多いからセクシー。でも、いやらしくはなく健康的」。ブランドコンセプトの「ヘルシー・セクシー」って、すごくいい表現だなと思っていました。
 その頃、伊勢丹でアルバローザを買っていた方は、30歳以上で時間やお金に余裕があって、ファンションに見識がある方が多かったように思います。アルバローザだから買っているわけでなく、プリントがきれいだから、デザインや素材がいいから、リゾートの風を感じるリラックスできる服がほしいから、など、その人なりの理由があったようでしたね。

ブランケットコート
ボア付きコート

「秋のカジュアル便利帳―JJだけが紹介します アルバローザのコート12着」掲載商品
『JJ』1992年11月号特別付録

●流行とは一線を画したアルバローザの人気

 ファッション感度が高い人たちを惹きつけた
 アルバローザのこの人気はどういう人気だったのか。
 僕は、百貨店のしがらみや固さを打ち破ろうと、4年目にして伊勢丹で初めてインポートジーンズを輸入するなど新しい試みにもチャレンジしてきました。伊勢丹のバイヤーとしてはある意味はめちゃめちゃだったかもしれません。
 ただ、僕には中学生の頃からトラッドやアイビー系の流行の担い手だったという自負と、雑誌「POPEYE」が紹介していたアメリカ西海岸のカルチャーやファッションへの強烈な憧れという原点があるから、カジュアル服なら次にどういうものが流行るか何となくわかる。カジュアルが好きで道行く人のファッションもよく見ていますし、ファッションはー巡るものだから僕が若い頃に流行ったものはリファインされて必ずまた戻ってくるのです。
 でも、アルバローザは違いました。アルバローザのリゾートファッションはアルバローザが作った流れ。それが新鮮で80年代のファッション感度の高い人たちの目に留まって、90年代初頭の大きな人気につながったのかなと僕は思っています。
 その後、僕は93年に台湾に赴任することになり、アルバローザがギャル系ファッションの若者に支持された2000年代のことは日本にいなかったので知りません。伊勢丹時代の僕の接したアルバローザは、ゆとりのある大人たちに愛されたリゾートファッションとしてのアルバローザでした。