Vol.6 語り手 本間治義氏
アルバローザを巡るさまざまなこと
戦後のファッションを見直す機運が盛り上がっている。そんな中以前からアルバローザを知る人々に「アルバローザの現象とはなんだったのか」「日本のファッション史の中のアルバローザとは」等をテーマに、それぞれの立場から見たアルバローザについてお話を伺うシリーズの第6回目。
アルバローザの製品はどんな人たちの手によって作り出されたのか。特徴ある素材の裁断から縫製まで関わり、現在はマリーナ ファッションを経営する本間治義さんに当時の仕事のお話を伺った。

マリーナ ファッション代表
プロフィール
本間治義さん
マリーナ ファッション代表 1957年、山形県鶴岡市生まれ。名古屋にある農機具メーカー大竹製作所に勤務後、結婚を機に29歳で地元の鶴岡市に戻り(株)アデランスの関連会社に入社。33歳で山形県水沢市の(株)サン・クレールに入社。水沢工場に勤務後、同社の山戸工場で工場長を務める。2000年、43歳で独立し、同社マリーナファッション工場の名前を受け継ぎ、マリーナ ファッションを設立。
第6回
アルバローザのスタイルを作り上げた新しい独自素材などを裁断、縫製
職人魂がデザイナーの求めるものづくりに対応するノウハウを生み出し、アルバローザの世界を表現する商品づくりに貢献
アルバロ—ザの製品の特徴は、さまざまな素材の特性を生かしながら、基本はワンサイズ、デザインはシンプルという製品が多い。一光社の工場で、その中心になってアルバローザの布帛製品の裁断や縫製に携わった本間治義さん。
アルバローザから一光社(注1)への発注は、100枚単位の小さな仕事から始まった。
そして、アルバローザの成長とともに仕事の量が飛躍的に増え、扱う商品も多様化、初めて出合う素材も多くなり、仕上げるまでの工程でオリジナルな工夫を重ねていった。
そこには、いろいろな難しさもあったが、一方ではものづくりの面白さや楽しさもあったと言う。自分たちの作ったアルバローザの製品が世の注目を浴びていくにつれて、当時のリアルな現場の臨場感も手に取るように伝わってくる。


農機具とアパレル
どちらのものづくりも面白かった
私、名古屋で農機具の製造の仕事をしていたのですが、結婚を機に出身地である山形に戻ってきた時に、たまたまご縁があって一光の社長に誘われました。その時は縫製工場で仕事するとは思ってなかったんです。でも、まあとにかく初めてのことなので他の工場に1カ月くらい裁断作業の修行に行きました。
そして戻ってきた時にはもう1人で仕事を任されるようになって。自分としては農機具の鉄も、布も同じようなパーツとパーツの組み合わせだという感覚で違和感がなかった。きっと性に合っていたのでしょうね。
最初に任されたのは、鶴岡市山五十川にある山戸工場での裁断の仕事でした。その工場は、男2人であとは女性。20人ぐらいで稼働していました。東洋物産や日商岩井といった商社から受けた比較的工程数の多い重衣料を扱っていました。飛行機の整備士が着るジャケットなどは意外にポケットや細かいパーツがあるから単価の割には採算を合わせるのが大変でしたね。


一方で鼠ヶ関工場ではアルバローザの仕事を受けていて、5、6人くらいで回していました。アルバローザはシンプルなデザインの割には高い工賃で仕事を出してくれるなあと思っていました。だから採算も取れていて計画通りに進められていたのです。
仕事に慣れてくると、私は山戸工場の重衣料と鼠ヶ関工場のアルバローザの仕事を掛け持ちするようになって、両方のことがよく見えるようになっていました。
そんなある夏、貸別荘に一光の社長や職人みんなで集まる会がありました。そこで社長と大ゲンカになって。私も酔っ払っていたから、「アルバさんの仕事を俺にやらせてくれたら、今の倍、仕事してやる!」ってタンカ切っちゃって(苦笑)。それはもう怒られた、怒られた。
でも、それから「じゃあ、やってみろっ!」と社長から言われて。ちょうどその時、アルバローザの仕事がドーンと増えてきた時期だったこともあって、「こんなに?」と思うくらい売り上げが上がりました。本当にすごかったですね。おかげで休みは日曜日だけ。土曜日休みなんか全くないし、ほとんど家にいなかったかな。ちょうどその頃に生まれた子どもを抱っこすると人見知りされて泣かれましたよ。
でも、一光の社長はすごく喜んでくれた。だから、あの頃を思い出すと、忙しかったけれど楽しかった、という感想しかないんですよ。


贅沢な生地使いが印象的
しかもデザインはシンプルが特徴だった
アルバローザの商品は、素材感にこだわりはあるけれどシンプルなデザインが多くて裁断や縫製の工程数が少なかったのですよ。
たとえば、柄物のパンツにポケットがあるとせっかくこだわって配置している柄が消えちゃったり広がったりして格好悪くなる。ポケットをつけることによるちょっとした実用性より格好良さを重視するというのが、アルバローザのスタンスだったのだと思います。我々作る側にとっては、ポケットが1つあるだけで手間もコストも跳ね上がるから細工が少ないのは助かるし、工賃の高い仕事だったから、とてもありがたかった(笑)。
アルバローザの商品は、コートなどの上物はもちろん、非常に細身のストレッチパンツまで、基本的に商品はワンサイズで作っていました。在庫を極力持たないという主義のためにサイズのバリエーションを増やさないという話を聞いたけれど、こちらとしては「それで商売になるの?」って、当時は驚きました。


シンプルなデザイン
一方で、アルバローザの特徴的なハイビスカス柄のように一つひとつの柄が大きいプリントだと、かなり無駄が出る裁断をしなければならず、もったいないなと思ったことも多々ありました。
また、プリント柄も頻繁に変わるため柄の配置については、デザイナーから細かく指示は出ているけれど現場で縫製する際にはなかなか位置合わせが難しく、こちらで判断しないといけないこともありましたが、サンプルを送ると大体一発でOKをもらっていたと思います。デザイナーとは頻繁にやり取りをしていたし、現場にも顔を出してくれていて、私たちも彼女たちが理想とする形を感覚的に理解していたから、求められるスタイルを生産することができていたのではないかなと。
恒例のアルバローザの忘年会には、私たちもよく参加させてもらって交流を深めていましたからね。


大柄のハイビスカスプリント
新しい素材の扱い方に苦戦しつつも
楽しかった思い出
デザイナーは生地の素材感にものすごくこだわりがありました。アルバローザでは海外で気に入ったサンプルを見つけてきては日本で似たようなものを探し出していました。素材の質感にこだわって一から作ることもあったとも聞いています。
こうしてうちに渡された素材なので、我々がそれまで扱ったことがないものも多く、さまざまな試行錯誤が必要でした。
●生地の伸縮性を安定させるのに苦労した2WAYカツラギ
ストレッチパンツの素材もその一つ。アルバローザが伸びる織物素材のサンプルを海外で買ってきて日本で同じような織物素材(2WAYカツラギ)を見つけたから、それでパンツを作りたいというお話をいただきました。
ただ、当時はまだ伸びる織物は珍しく、日本では扱い方があまり知られていませんでした。それで、うちで試行錯誤してようやく形にした覚えがあります。
この素材はそのまま型通りに裁断して縫製してパンツにすると数日後には生地の状態が変化して形が変わってしまうのです。
生地の伸縮を安定させるためにはどうすればいいのか、ということで、まず巻いてある生地を一度裁断場の上に全部広げて1日置いておく。これを放反というんですが、うちでは全部平らに広げておく場所はないから重ねるしかない。そうすると生地がしわくちゃになるから、それはそれで大変ですけれどね。その後でスポンジングといって、生地に蒸気を当てて繊維をキュッと縮める作業をするのですが、うちでは布全体に蒸気を当てることができないので、これができる工場に生地を送ってしっかりと蒸気を当ててもらい、それをうちに戻してもらって、

また1日放反して、生地が安定したのを確認してから裁断し縫製していました。他の素材と比べて、手間がかかるし、完成までかなり余分に日数が必要でしたよ。
このストレッチパンツは大人気の商品になったから、他のブランドもまねて作ってみたけれど、「生地が伸びてしまって左右の足の長さが違ってしまい売り物にならず全て返品された」なんていう話も聞きましたね。当時はまだストレッチ素材が出始めのころだったので、我々が生み出したノウハウは、まだ一般的になっていなかったのです。
●衝撃だったピッグスエードで作るパンツ
ピッグスエードで1枚革のショートパンツや巻きスカートなどを作った時のこともよく覚えています。洗える革のパンツという売り文句の商品だったのですが、うちでお話をいただいた時は「豚の革で作るの?」と衝撃を受けました。何しろ扱うのは人生で初めてでしたから。

素材を手にしたときは、牛の革はもちろん、羊の革より柔らかいのかなという感覚でした。
革屋さんからは、どのあたりの部位の革なのかといった話も、扱う際に注意する点などの説明もないまま工場に束で革が送られてきました。1枚1枚を丹念に見ていくと、1枚の中で厚さに差があって、しかも脇や脚など部位によって革の伸び方が違うことに気づきました。
商品のクオリティを保つためには、できるだけ厚手のところから生地を取っていく必要があり、何枚も重ねて裁断することができません。結局、1枚ずつ丹念に裁断していきました。
●縫うのが難しかったスラブラッセル

スラブラッセルという生地を使った商品も、最初はどうやって縫うのか悩みました。スラブラッセルは粗い目の、網のような生地で素敵な素材なのですが、布がカチッと固定しにくく縫うのが難しいのです。特に裾や襟の部分は素材の端を三つ巻にしてから縫うので縫う時に手で支えていても布が崩れて逃げてしまって、慣れるまでは少しずつ慎重に進めていかなければなりませんでした。慣れてからはスムーズに縫い上げることができるようになっていきましたね。
●ファーのコートの毛出しは地道な作業

フェイクファーのコートを縫製したときは毛出しに手間がかかりました。毛出しというのは縫製の際に一緒に縫い込んでしまったファーを縫い目から掻き出す作業です。専用の金具を指にはめて一つひとつ丁寧に縫いこんだ毛を抜いていく。地道で手間がかかるのですが大事な作業なのですよ。
こうして今改めて見直してみても、商品がとても可愛い。アルバローザって本当に優秀だったんだな、一世を風靡したんだなと思います。
そういえば、30年以上前、アルバローザの仕事を始めた頃に「渋谷109」に商品を見に行ったのですが、その何年後かにもう1度見に行ったら、フロア全体がアルバローザ系統の商品になっていて。もちろん質は全然違うんだけれど、そういう風に「渋谷109」が変わっていったことを覚えていますね。
テレビドラマで女優さんが着ている服でも「あっ、これ、うちらが作ったやつだ」ってなっていった。そうなると、やっぱり作る方も楽しいんですよ。従業員の間でも「この間のテレビに出てたよ」って話題になって。それこそ女性誌に載ったりすると、私が買うのも変だから、娘に「買ってきて」って頼んでいましたね(笑)。
あと、印象に残っているのは、アルバローザの周りの仕入れ先の人達は、アルバローザがまだ小さな会社だった頃からずっとお付き合いしていて、会社の規模が大きくなっても同じところとずっとやっていくという、そんなイメージありました。だからチームみたいな感覚で、全然うちと関係のない工場さんにもわからないことがあるとすぐ電話してやり取りしたりしていましたよ。それも全然OKだったという空気がありました。
あの頃は楽しかったという感覚が
今のものづくりの姿勢につながっている
その後、私は2000年に一光社の工場を引き継ぐ形で独立しました。マリーナ ファッションという社名は、そのときの工場名をそのまま使わせてもらいました。
実は、アルバローザの商品作りが終わった後、元アルバローザのデザイナーの方からフラダンス衣装の仕事を紹介していただいたのです。
プリント柄はアルバローザのイメージと似ていたので抵抗なかったし、オーダーなので1点1点違って、丁寧なものづくりのやり方も自分に合っていました。
フラダンス衣装の仕事は今でも続いています。
他方で、周りの人からもっと大量に生産する仕事を提案されたこともありますが、ただ数をこなす量産の仕事はあまり好きじゃなくて。それは、アルバローザの仕事をしていたあの頃が楽しかったからだと思うんです。何回も言うようですけれど、本当に楽しかったというイメージしか残っていないんですよ。
注1:株式会社 一光
アルバローザの布帛製品の裁断・縫製を請け負っていた一光社の設立は1977年。日本橋小伝馬町に事務所があった。当初は商社からの大量生産の仕事を受注して、地方の工場へ縫製を依頼していた。
アルバローザの仕事を始めたのは、1983~1984年頃。通常では引き受けない規模の100枚、200枚単位の仕事を山形県の鼠ヶ関工場で請け負っていたが、アルバローザからの仕事はその後増え続け、1980年代後半、山形に「サン・クレール マリーナファッション工場」「サン・クレール 山戸工場」、福島の三春に「ファッション・マキ」の自社工場を設立。

