Vol.5 語り手 橋本喜代子氏
アルバローザを巡るさまざまなこと
戦後のファッションを見直す機運が盛り上がっている。そんな中、以前からアルバローザを知る人々に「アルバローザの現象とはなんだったのか」「日本のファッション史の中のアルバローザとは」等をテーマに、それぞれの立場から見たアルバローザについてお話を伺うシリーズの第5回目。
アルバローザは、そのメッセージ性を世の中に伝えるためにどんな宣伝活動を行ってきたのか。カタログ、ハイビスカス新聞、ポスターなどの媒体を請け負ってデザインを制作したのが、デザイン事務所「ロケット」の代表橋本喜代子さん。アルバローザをどのように理解し、デザインを展開したのか当時のお話を伺った。

デザインオフィス Rockettの名刺
プロフィール
橋本喜代子さん
デザインオフィス「Rockett」(当時)代表。
1994年デザインオフィス「Rockett(ロケット)」を29歳で立ち上げる。
以来11年間、ファッション関係のカタログや広告ポスターの制作、印刷物全般のアートディレクションなど幅広く活躍。
第5回 アルバローザのブランド力をより確かなものにした
カタログによる顧客へのメッセージ発信
デザイン会社「Rockett(ロケット)」という組織の中で、1996年アルバローザのカタログの制作に関わるようになって、8年余り。制作したカタログは、その時代の自立した女性の空気感を醸し出し、アルバローザのイメージ構築に大きな影響を与えた。
アルバローザ社の市川社長や、広報の担当者とタッグを組み、その意を汲んでアイディアを実現していったデザインのやり方や、当時、アルバローザを身にまとった人々、世間のイメージに対しての想い、アルバローザ社にどんな印象を持っていたかを振り返っていただいた。
Macを使って仕事が広がり
アルバローザとの出会いに繋がった
1994年、29歳のときにデザインオフィス「Rockett(ロケット)」を友人と立ち上げました。
95年頃になると、デザインの編集ソフトも出てきて、Macが使えると話すと結構仕事がいただけるようになっていました。その頃にはすでにいくつかのファッション関係のカタログ制作や、あるブランドのTシャツのデザインにも関わるようになっていたのですが、96年、当時お付き合いのあった広告代理店から、アルバローザの仕事をやってみないか、と声をかけられたのです。
その当時、アルバローザは『Fine』などのファッション誌に商品が掲載されていて、「リゾラバ」「パラギャル」というイメージで人気があったにも関わらず、その頃の私は全然知らなかったのです。

ポスター 1996年

ポスター 1996年
洗練されたイメージから親しみのある雰囲気のカタログへ
当初の依頼としては、アルバローザの目指す「ヘルシー ライク サンシャイン」「セクシー ライク サンセット」という言葉を大きく捉えて、既に用意されている写真からポスターやカタログを制作してほしいということでした。
まずポスターを制作したところ、それまでの感じとはガラッと変わったことがよかったのか、市川社長(当時)に気に入ってもらえて、96年冬からカタログのレイアウトも担当することになりました。初めのうちは別の会社の方がアートディレクションに入り、私たちは渡された素材でレイアウトのラフを描いて、許可を受けてから版下原稿を作るという形で制作を進めていました。
そして、98年秋冬のカタログから、私がアートディレクションの全てに関わることになりました。

カタログ表紙

カタログ表紙
年に3、4冊のペースでカタログの発行をすることになり、アルバローザ広報担当の並木さん、山道さんのお二人からそのときのアルバローザのテーマの説明を受け、モデル、カメラマンの選定など、一緒に作っていくという形で進めていました。モデルをそれまでのかっこいい、洗練された雰囲気の人から、テーマに沿って、痩せすぎておらず健康的ではつらつとした雰囲気の人を選ぶようにしました。撮影では、アルバローザのファッションを身に纏ったモデルが可愛くなるから好きでしたね。
そのほか、イラストレーターを探したり、細かいイラストやコンセプトの文字を自分で描いたりすることもありました。

カタログ表紙

カタログ表紙
また、テーマがパレオのときにはカタログをバッグに入れて持ち運びやすい小さいサイズにして、持っていて楽しくなるような雰囲気を打ち出しました。

カタログ表紙・裏表紙

カタログ1999年 SUMMER
アルバローザのイメージを固めるにあたって一番参考にしたのは、広報のお二人から受けた印象です。並木さんはマリンスポーツが大好きで、山道さんはアルバローザ名古屋店の元店長ということもあって商品にも詳しく、お二人とも商品を愛していて、いつも身につけていました。時流に乗った着こなしも素敵でセンスがとても良かったことを覚えています。
アルバローザのリゾートファッションにぴったりのモデル
プロサーファーのマリア・ジョーンズを提案
その頃の仕事で特に印象に残っているのは、プロサーファーでアメリカ人モデルのマリア・ジョーンズを起用した99/00 AUTUMN&WINTERのカタログ。彼女は南国の雰囲気があってとてもインパクトのあるモデル。アルバローザにぴったりだと思ったので私の方から提案しました。
実は以前、ジェニファー・ロペス似の黒人モデルの起用を検討したことがあったのですが、金額面で断念した経緯がありました。マリア・ジョーンズも本当に有名な人なので受けてくれるかはわからないとは思っていましたが、交渉してもらった結果、金額的にも折り合いがついて、パリでなら会えるということになりました。カメラマンはLA在住で数々の有名アーティストを撮影されているHIDEO OIDAさんにお願いしました。OIDAさんを選んだ理由は、写真の独特な焼き方がとても素敵で、そのときのテーマにもモデルにも雰囲気がぴったりだと思ったからです。
撮影はパリのスタジオと有名なセレクトショップ『コレット』で行われました。撮影後の写真はOIDAさんの焼き方で、すぐにパリで焼かれて、その写真はカタログだけでなく、広告ポスターとして渋谷の交差点にあるマルイシティのビルボードになりました。マリアさんは1年後、自宅のあるハワイのマウイ島での撮影も受けてくれました。2回出てくれたのですから、前回の出来を気に入ってくれたのかな、とも思っています。

カタログ表紙 &内容

カタログ表紙
ハワイ、バリ、パリ、ニューカレドニアなど、海外ロケにもたくさん行きましたね。海外撮影のときは、事前にもらった現地の風景写真などの資料で絵コンテを準備していき、現地に到着してからカメラマンと一緒に撮影場所を決め、撮影を行うというスケジュールで、一週間ほど滞在しました。今考えると、カタログはとてもお金のかかった贅沢なものでした。それなのに多くの人に配るというより、お得意さまに向けたものだったので刷り部数が少なく、1冊あたりのコストはかなりのものだったと思います。アルバローザとしては、それだけ投資をして世界観を作っていったのだと思います。
世間のイメージと実際のギャップを埋めるための
ハイビスカス新聞の制作が始まる

2000年頃になると、アルバローザから、製品の制作過程や社会や環境に配慮する会社の取り組みについてもっと掘り下げた情報を伝えたいので、カタログではなく新聞という形にしたい、というお話がありました。
当時のアルバローザは、リゾート系のブランドというより渋谷の若い子達の間でブームになっている“ギャル系の人気服”としてメディアでセンセーショナルに扱われることが増えてきて、丁寧な物作りを第一に考え、環境に配慮した取組みをするといった会社の理念やブランドイメージと、世間のイメージとのギャップが大きくなっていたと思います。それを埋めるコミュニケーションツールが必要なのだと理解しました。
元々私自身は、初めてアルバローザの仕事を受けた時から、会社の方針や一人一人の社員の方から受ける印象と、外部の情報から受けるブランドのイメージとの間に少なからずギャップを感じていました。アルバローザの社員の方々は真面目できっちりしているなという印象が強かったですね。
まず、倉庫がスッキリしていました。他メーカーだと倉庫の中には山と積まれた段ボールがあって、在庫の商品にはホコリが積もっている、なんてことも少なくなかったので、倉庫に商品はおろか空の段ボールすらないことに驚きました。
また、カタログのスケジュールは商品のサンプルが出来てからになるので、サンプルの出来上がりのタイミング次第でこちらのスケジュールはかなりタイトなものになります。それで、朝から晩まで1日に何度も社長から「はやく、はやく」という催促の電話があって(笑)。
そんな仕事の最中、よく会社にお邪魔していましたが、いつうかがってもエントランスには生花が飾られていました。社員の方の机の上は常に整理整頓されていて、みなさんとても礼儀正しかったのを覚えています。
製造工場の職人さんたちの手のかけ方に感銘
彼らの仕事をきちんと紹介しなくてはと思った
そうした方々が作っているから信頼できる商品だというのはわかっていましたが、「ハイビスカス新聞」で製造工場の取材をした時には感銘を受けました。

ハイビスカス新聞Vol.7 9-10頁
大阪泉大津市にあった、昭和初期の民家が住まい兼仕事場の町工場で、年配の職人のご夫婦がブランケ−トコートを作っている姿は今でもよく覚えています。こういう繊細で丁寧な仕事がプロの仕事なのだ、と。職人の方の取材をするたびに、アルバローザの商品はここまで一つ一つ手をかけて作っているのかという驚きと共に、彼らの仕事をきちんと紹介していかなければと強く思いました。
一方で、渋谷に行けば多くの若い子達がアイコンのようにアルバローザのショップの袋を抱えて闊歩する姿をよく目にしました。そんなときは、「今作っているグラフィックデザインを受け止めてもらえるのだろうか。
もっと彼女たちに向けて彼女達が欲するような情報を発信するべきなのではないか」と悩んだことも事実です。でもファッションというものは作り手の思いとは関係なく自由に形を変えていくものだし、実際に商品は売れているのだからと自分を納得させていました。
あの当時、若い子達がアルバローザの服をどんな気持ちで着ているのか知りたくて、店舗に並んでいる子によく話しかけていたのですが、彼女たちはただ自由に自分を表現して、その時代を楽しんでいるのだと思ったものでした。
アルバローザの気風は彼女たちに理解されていた
一時代を築いた後、今も続いていたらどんな感じになっていたのか

新聞一面
私も、アルバローザというブランドは、人の目や男性の目線を気にして着るための洋服ではなく、自分自身を表現し、自分自身を楽しむためのアイテムだと理解していましたから、カタログでもいわゆる男性誌のグラビアモデルに出ているタイプの女性や、媚びたような表情の写真は選びませんでした。当時、世間からある種奇異な目で見られていたガングロと呼ばれた彼女たちも、そんなアルバローザの気風を無意識のうちに感じ取っていたのかもしれませんね。
Rockettの制作物からもそうしたものを感じてくれていたのなら、ちょっと嬉しいなと思っています。
その後、ハイビスカス新聞の仕事は2005年に終了し、同年アルバローザは全店舗を閉鎖。ちょうどそのタイミングで相棒が転職をすることになり、Rockettも解散しました。
当時は、カタログ以外にもパレオやTシャツのプリントのデザインなどもいくつか仕事をさせてもらいましたが、今振り返ってみると、若い人たちと一緒に物をつくったあの時間はとても楽しいものでしたね。自分としてはブランドをもっと知ってもらいたい、よく見せたいと思って全力でやっていたのでやり残したことはないのですが、でももし、一時代を築いたアルバローザが今でも続いていたらどんな感じになっているのだろうと時々考えたりもしています。



Tシャツ·パレオ グラフィックデザイン
そして現在、鎌倉の海の近くに住み、Tシャツや手ぬぐいのデザインなど、仲間とのつながりでいただいた仕事や、興味がひかれるものを中心にデザインの仕事を地道に続けています。その傍らで仲間と6人乗りのカヌーで江ノ島から大島まで行ったり、ハワイのカヌーレースに出たり、仕事が忙しくて断念した油絵の勉強を再開したり。日々の生活を大切に暮らしています。
(※橋本さんの制作した『ハイビスカス新聞』は国立国会図書館で閲覧可能です。また、カタログなどは、HP、インスタなどでも掲載しています)